先日、会社に新しいゴミ箱が導入された。「導入された」というと大げさに聞こえるが、不燃ごみが「空き缶」「びん」「ペットボトル」「その他の不燃ごみ」と細かく分別できるようになり、どのゴミ箱に何を捨てるか迷うこともなくなったので、とても嬉しい。
東京23区でゴミを「不燃」「可燃」に区別して捨てるようになったのは昭和49年から。
そして平成に入ってからは、「省資源」と「ごみ処分場の確保」のために、ごみの減量と分別が推し進められた。平成ヒトケタに上京&就職した私の社会人生活において、ごみの分別と廃棄に割いたコストと時間は、ちゃんと計測したことはないけれど、かなりのものになるのではないかと思う。 ごみの分別は、一旦始めてしまうと、もう後には戻れない。 なぜなら、ごみの分別は正義だからだ。 牛乳パックを洗って切って干す、ペットボトルも洗ってビニルを剥いで干す、魚や肉のトレーも洗って干して、この三点セットは最寄のスーパーへ。そして空き缶、空き瓶、雑誌にダンボールは資源ごみにするべく整頓。そこに燃えるごみ、燃えないごみも分けて……
時折「やってられるかい!」と思って、燃えないごみの中にトイレットペーパーの芯を入れたまま回収に出したりするのだが、なんとなく後味が悪いのは何故なんだろう。自分の差し出した物が、ご近所の方や回収の方に受け入れられなのでは、という恐れを抱くのか?いい子にしていないというのが丸見えの、あの半透明の袋を恨みつつ、ふと気が付いた。これって、テレビを作るのと似てないだろうか、と。 次回につづく ・・・
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